かもいけ歳時記
真砂在住 郁子さんの
暮らしを彩る
〝年中行事のすすめ〟
ホワイトデー 令和6年3月
3月14日は「ホワイトデー」ですね。
実はこれは、日本で生まれたものだったのはご存じですか?
バレンタインデーに、チョコレートを贈るというのも、日本の菓子メーカーがきっかけであることは、ご存じの方も多いですよね。
ホワイトデーは、そのお返しという考えが、いかにも日本らしいと感じるのは私だけでしょうか?
私がホワイトデーというのを耳にしたのは、1970年代後半の頃。
おぼろげながら「ホワイトデー」はマシュマロデーと言われていたような気がすると思って、調べてみたら、2つの説がありました。
ふわふわのマシュマロの中に黄身餡が入った“鶴の子饅頭”を製造販売している石村萬盛堂が、1978年に黄身餡をチョコレートにしたものを売り出したのだそうです。その時に、マシュマロデーは大きなヒットにはならなかったものの、マシュマロの白いイメージが「ホワイトデー」につながって定着をしているという説。
もう一つは、「バレンタインのお返し=キャンディー」という習慣の定着を狙った全国飴菓子工業協同組合によって考案されたという説です。この組合が行った1980年のホワイトデーでは、百貨店やラジオ広告など広くキャンペーンを展開したそうです。ホワイトデーにキャンディをいただいたことは一度もないのですが、「ホワイトデー」自体が徐々に定着していったのは、こういうキャンペーンがきっかけだったのかもしれません。
最近は、バレンタインデーのチョコレートも、自分へのご褒美チョコだったり、友チョコだったり…と、女性から男性への告白なんてことに限らないことも多くなりました。
私も、数年前から職場での義理チョコをやめました。なので、今年もホワイトデーには何もお返しが来る予定もありませんが、友チョコを頂いた方には、やはりお返しをしなくては…と思って、クッキーを準備しました。
皆様は何かされますか?
節分 令和6年2月
節分は季節の分かれ目という意味を持つ言葉で、立春など季節が変わる前日を指す雑節の一つ。
節分は必ず2月3日ということではないのですが、江戸時代頃から節分といえば立春の前日の節分を指すようになったようです。
今年は、暦の上でも2月3日が節分です。
今回は、豆を撒いて鬼が去り、お多福面と「立春大吉」の手描きの文字を添えました。
これは、禅寺などで貼られるお札に由来していて、4文字が左右対称で表裏から見ても変わらないため、玄関や外に貼っておくと鬼が、万が一家に入ってきても、勘違いをして出て行ってしまう(邪気払いできる)といわれているそうです。
「大吉」という文字をみるだけでも気分が晴れやかになりますね。
さらに、市場で初めて見つけた祝蕾(しゅくらい)と縁起のよい名がついていた野菜と、たくさんの花芽をつけた梅の花で春の訪れる喜びを表現してみました。
鏡開き 令和6年1月
みなさま 新年をどのように迎えられたでしょうか?
年明けから、能登半島地震や航空機事故など、心が痛むお正月となりました。
被害にあわれた方々が少しでも早く、落ち着いた日常が迎えられるように願うばかりです。
「富正月」という言葉はご存じですか?
元日や、正月三が日の間に降る雪や雨のことを「富正月」とか「お降り(おさがり)」というそうです。「御降り」は天を離れてさがってきたものという意味で雨や雪をさします。
「富正月」は、正月の三が日雨や雪が豊作のしるしと言われることに基づいていますが、正月に限らず雪の多い年は豊作だと言われ、雪は「五穀の精」などとも言い、多くの水を必要とする稲作にとって、雪が多ければ雪解けの水が豊かになって収穫も増え、富につながるというわけです。今年は3日に雨が降りましたね。心豊かに、心穏やかな日々をと・・・今まで以上に今年の正月に、特別な祈りをこめたくなりました。
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鏡開き
さて もうすぐ鏡開きの日がやってきます。お正月に飾った鏡餅を食べることを言いますね。
小学生の頃は、年末になると、叔母の家に1日預けられて、お手伝いをしながら、鏡餅用、料理用、大好きなあんこ餅用と、用途にわけて大量に作っていたことを思い出します。あんこ餅だけ先に食べたいと思うのですが、なかなか言い出せなくていると・・叔母が味見と言って渡してくれる小さなあん餅の美味しさはなんとも言えない年末の楽しみでもあり、今は私を可愛がってくれた叔母のことを思い出させてくれます。
そういえば、真砂マーケットに多くの店舗が入っていた頃、お餅を搗く様子をみていた記憶があるのですが…。
現在、わが町、鴨池校区コミュニティ協議会が主催している「餅つき大会」という素晴らしい試みが続いています。昨年12月、多くの方が参加されたようですね。私は参加できなかったのですが、これは、時が経ち、私が幼い頃にはね・・・と、振り返った時に、その体験が、いかに素敵で貴重な思い出となることになるに違いないと、思わずにはいられません。季節の伝統的なことは、記憶に残す大切な行事という側面もあると実感しています。
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ひと昔まえの鏡餅…
最近の鏡餅は、個包装になっていたり、真空パックで売られているので、気にならなくなりましたが、私が幼い頃には、家庭や親戚が集まって、お餅を搗いたり、お餅をそのまま床の間に飾っていた記憶があり、当然搗いて、形を整えたそのままが供えられていました。
最初はよいのですが、だんだん日がたつにつれて、お餅が乾燥して、ひび割れし、そのあと、青カビ?と思うような状況にさえなるときもあって、お餅が大好きな私は、日々変化していく姿に、食べなくてよいものか??と思っていたものでした。
今はいいですよね。お餅の状態なんて気にしないで安心して、鏡開きまで待てますから…。
では固―くなった鏡餅を母は、父の大工箱から木槌で開く(たたき割る感じです)、水につけて、少し柔らかくなってから、身体を曲げて、ものすごい怪力で割っていました。包丁では切ってはいけないということからだったと思います。
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鏡餅を食べること、そこにもちゃんと意味が
日本ではお正月に、各家に年神様が来られると考えられていて、その神様がいらっしゃる居場所が鏡餅という考えがあります。いわゆる依り代ということです。
お正月は年神様をお迎えする行事であり、その年、神様の依り代となるのが鏡餅というわけです。依代には歳神様の霊力が宿っているため、歳神様がお帰りになった後、その霊力を分けてもらう意味もあり、鏡餅を食べて、一年の無病息災と幸せを願うのです。
となると、神様がいらっしゃる間は食べるわけにはいきませんね。
ではいつ食べればよいかというと、「鏡開き」の日ということになります。鏡開きをする日は、地方によっては20日にするところもあるそうですが、一般的には、毎年1月11日が多いようです。鹿児島もそうですね。
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鏡開きの由来
「具足祝い」という戦国時代の武士の風習に由来するという説があります。これは、お正月に刀や鎧、兜などの前に鏡餅を供え、それを下ろして食べる行事です。また、鏡餅には宮中の「歯固め」の儀式に由来し、丈夫な歯の持ち主は何でも食べられ、長生きできるという考えから、健康と長寿を願い、固くなった鏡餅を食べるという説もあります。
鏡開きをすると、お正月、ひと区切りついたような気持ちになりませんか?
私は、ぜんざいが大好きです。厄除けの小豆とお餅で、今年もまた健やかに日々が送れますように。そんな思いをもちながら食べたいと思います。
冬至 令和5年12月
先月、旧暦の暦は季節を静かに教えてくれている…と書いたことを反省するほど、12月に入って寒さを感じるとはいえ、暖房機器の出番が少ないと、実感しています。
例年より、さらに温暖化を感じさせる師走のように感じます。
1日の寒暖差や急な温度変化に体調を崩さないように…そう思う日々です。
さて、今年の冬至は、12月22日。
二十四節気では1年を太陽の動きに合わせて24等分しているので、毎年同じ日ではなく、12月21日前後となります。
冬至は1年で最も夜が長く、この日を境に、陽が少しずつ長くなっていきます。
冬至には昔から“かぼちゃ”と“柚子”はよく聞かれる方も多いと思います。
では「冬至七種(とうじななくさ)」とか「運盛り」というのは聞いたことがありますか?
「冬至七種」とは、かぼちゃ(南瓜:なんきん)、蓮根(れんこん)人参(にんじん)銀杏(ぎんなん)金柑(きんかん)寒天(かんてん)饂飩(うんどん:うどん)などこれら7種の「ん」が2つついたものを「冬至七種(とうじななくさ)」と呼び、この日に「ん」のつくものを食べるとたくさんの運が呼び込めるので縁起がよく、運がつくとされ「運盛り」とも呼ばれています。
運盛りの代表格かぼちゃには、ビタミンやカロトンが豊富ですし、冬の栄養をとれる食品としても先人の教えが理にかなっていますよね。
与次郎にある市場では、11月末くらいから、かぼちゃの販売量もふえていたように感じます。
冬至とクリスマス 全く関係ではないというお話も…。
私が、冬至を意識せずにいた頃は、12月と言えば、なんといってもクリスマス!!
幼い頃は、イエス・キリストの誕生より、サンタクロースが運んでくれるクリスマスプレゼントが気になるし、ちゃんと思っていたものが届くのか?それが心配だったのだと思いますが。
いくつになっても、クリスマスは12月の最大のイベントとしてわくわくする日には違いないです。
時を経て、日本の伝統行事などを知るにつれ、12月は冬至のあと、すぐにクリスマスが控えていて、家の中も、私の頭の中もなんとなく、この時期、和洋折衷になっています。
実は「冬至」と「クリスマス」全く無関係でもない?ともいわれているお話があります。
クリスマスは、イエスキリストの誕生日だと思っている方も多いかもしれませんが、実は新約聖書では、12月25日が誕生日と特定していないというのです。
(いろんな説があるとはいえ)『キリストの誕生を祝う日』と言われています。
北欧では、キリスト教が伝わる以前から、「ユール」と呼ばれる、冬至祭があったそうです。北欧では太陽が出ている時間短いので、太陽の光が本当に神聖なものであり、太陽の復活というべく「冬至の日」を盛大に祝ったとされています。今でも北欧ではその風習が残っているそうです。キリスト教が広まっていく中で、この行事を吸収する形で冬至とクリスマスは別物には違いないのですが、日本でも、海外でも「太陽の光」を神聖なものとして、大切に考えてきたことを感じます。
今年の冬至は、かぼちゃと小豆の煮物は絶対に作って食べようとか、11月に入ってすぐに購入したトナカイの置物を、どこに飾ろうか…など考えて、例年に比べて、冬がきた体感は今はまだ、薄いけれど、暦に合わせて、いろんな行事を楽しもうという気持ちは厚くなっています。
歳時記カレンダー 令和5年11月
11月に入ると「今年も残り少なくなってきましたね」そんな言葉が自然とでてきませんか?
伝統行事の勉強をするにつれて、季節を表す言葉を知りたいと思い、数年前から旧暦の歳時記が書かれたカレンダーを購入にしています。
初めて購入した時には、12枚のカレンダーには、様々な言葉が印刷されていて、お恥ずかしいですが、読むこともままならない季節の言葉がいくつもありました。
二十四節気・七十二候という言葉をご存じの方も多いと思います。
1年を4つにわけたのが春夏秋冬の四季。
1年を24にわけたのが二十四節気、さらに二十四節の各一気(15日)を5日ずつ、初侯、二侯、三侯と3等分して、72に分けたのが七十二侯というわけです。
11月には24節気でいうと11月7日頃は立冬(りっとう)。
立冬の日から、日あしも短くなるといわれます。
そして七十二侯では、順に、紅葉蔦木黄、山茶始開、地始凍、金盞香、虹蔵不見の文字がカレンダーに印刷されています。
*読み方は若干違う読み方で表現されているものがあります
紅葉蔦黄・・・「もみじつたきばむ」11月2日~6日頃
もみじやつたが黄色く色づく頃
山茶始開・・・「つばきはじめてひらく」11月7日~11日頃
山茶花(さざんか)が咲き始める頃*山茶とはさざんかの花のこと
地始凍 ・・・「ちはじめてこおる」11月12日~16日頃
大地が氷はじめる
金盞香 ・・・「きんせんかさく」11月17日~21日頃
金盞(きんせん=水仙)の花が咲く
虹蔵不見・・・「にじかくれてみえじ」11月22日~26日頃
虹をみかけなくなる
それぞれに、そういえばこの頃、そうかもしれない…と思えませんか?
季節におこっていることを端的に美しい日本語で表現していますよね。
昔の人の感性と観察眼とでもいうのでしょうか?凄いと感じずにはいられません。
日々の生活の中で、自然に目を向けると、その季節ごとに花が咲き、空、地面の様子、など、自然の変化を知ることで、冬の近づきを教えてくれているそれが11月の頃なのだ…と表現豊かな言葉たちに何度も頷きたくなる心境になります。
鹿児島は秋が短いと思ってしまいますが、黄色く色づく葉や、紅葉するものだけでなく、私たちが気づかずにいるだけでしっかり、季節を駆け足で過ぎているだけなのかもしれません。
花鳥風月を愛で、旬の恵みをいただく…。旧暦のカレンダーには、日本人ならではのことば遊びともいえる風流な季節の楽しみがあるのだと感じさせてくれました。
今年もあとひと月…私はまた旧暦のカレンダーを買ってしまう頃です。
10月のお月見「十三夜」 令和5年10月
10月にはいって、朝晩涼しくなったと感じた方も多いと思います。
皆様それぞれに秋を感じるきっかけがあるかと思います。
私は仕事の帰り道、澄んだ空気の中、輝きを増したように見える月の美しさにひかれて写真を撮ってしまう時や、毎年金木犀の香が風にのって香ってくるのを感じると「秋がやってきた」と感じます。
先月、お月見の行事、旧暦8月15日「十五夜」について書きました。
9月29日の中秋の名月はご覧になりましたか?
その日は丁度、満月と重なってとても大きく、美しく輝いて見えましたね。
私は仕事帰りに思わず写真を撮ったのですが…。素人すぎて、皆様におみせできるようなものではなかったです。
そして、今月(旧暦の9月13日)10月27日は、もうひとつのお月見「十三夜」です。
十五夜は中国から伝わったものですが、十三夜は、日本独自のものです。
満月とは違い、あと少しで満月…そんな不完全なところにも、美意識をみつけ、それも魅力的だと感じる“日本人の感性なのでしょうか?
「十三夜」を「のちの月」とも言うそうです。
また、十五夜と十三夜のどちらかしかみないことを「片見月」と言って縁起的にはあまり良しとしないそうです。
なので、是非 今年は、先月の十五夜に続いて、今月10月23日の十三夜も晴れるといいなと思っています。
また、十三夜は別名「栗名月」とか「豆名月」と呼んでいます。
十五夜(旧暦の8月15日)の頃に収穫された里芋などをお供えしたことから「芋名月」とも呼ばれています。
同じように十三夜(旧暦9月13日)は栗や、豆類の収穫が行われ、五穀豊穣を感謝し、祝うという意味でそれらをお供えしたことから「栗名月」「豆名月」と言われています。
今回は、家にあった果物と一緒に栗名月にちなんで栗と、なた豆を盛りました。
十五夜に比べて、なじみの少ない十三夜ですが、今年は、ご家庭にある果物をお皿に盛って五穀豊穣を祝う気持ちと月の美しさに心を癒されるひとときを過ごしてみませんか。
2023年の秋
今年の秋、特に10月7日から始まった、「特別国民体育大会」と「全国障害者スポーツ大会」の開催もあって鹿児島県の選手たちの活躍を応援する楽しみがありますね。
なんといっても、鴨池地区に住んでいる私たちにとっては、すぐ近くで開会式、閉会式が開催されますし、今日も何気に白波スタジアムの近くを歩いただけでも、応援席から観戦している姿がみえましたし、荷物を抱えた人の動きや、鹿児島弁ではない言葉の方とすれ違うこともありました。
普段はスポーツに関しては、雰囲気に任せの、にわかファンで、一過性の応援ということが多いのですが、51年ぶりの開催で、いつもの国体より関心が高くなっています。そういう方も多いのではないでしょうか?
前回の鹿児島開催は昭和47年、今から51年前でした。
たまたま父親が国体の審判などで参加をしていました。
記念の参加バッジなども、家のどこかで眠っているような気がします。
担当した中でも、障害者の水泳部門の話は、その後も父が何度も話してくれていました。
障害のある方たちが全力を出し切ってスポーツに向き合っているその姿に感動したこと、直で接して感じた、貴重な体験や、人間が持つ潜在能力などが生む力や生まれてきたことの意味などを話していました。
私は、偶然、障害者スポーツ大会の花束をつくるボランティアを、お花の先生に声をかけてもらったので、参加することにしました。
父には及ばずとも、父が話してくれたオモイを少しでも感じる時間がもてれば、学びもあると思いました。
選手へのリスペクトの気持ちでお役にたちたいと思っています。
そして、片見月とならないように、10月23日、十三夜のお月さまが見えますように。
そんな願いがいっぱいの特別な2023年の秋となりそうです。
「重陽の節句」 令和5年9月
お月見行事の「十五夜」はいわゆる“中秋の名月”(旧暦の8月15日)をさしていて、今年は9月29日です。
旧暦では7月~9月を“秋”としていて、その真ん中にあたるのが8月15日なので、中秋というわけです。
*月齢の15日目の月を十五夜と呼び、これは、毎月あるのですが、暮らしの中で、単に「十五夜」という時には、その中でも「中秋の名月」という場合は、旧暦8月15日の夜に、年に1度見える月を、「十五夜」をさして言っている場合が多いです。
皆様にも「十五夜」の思い出はいろいろある方も多いと思います。
私も幼い頃に、すすきを焼酎瓶にさしてお団子と果物、里芋などを一緒にお供えしていたことを思い出します。
秋には、運動会や文化祭などいろんな学校行事があって、慌ただしい中にも、見上げた月の美しさや、明るさをあらためて感じると、少し落ち着くような、でも、今年、半分以上過ぎているんだと、ふと考える…そんな気分にさせてくれるのもこの季節ですよね。
去年、道の駅や、与次郎にある市場に行くと十五夜用にススキや萩、いが栗のついた栗の木がセットになって販売されていて、想像以上に、それを買い求めている方が多く、まだまだ、お月見を、家庭行事として大事にされている家があるのだと感じました。今年も販売されていればうれしいです。
月見団子
「十五夜」にお供えする“月見団子”この形もいろいろあるそうです。
里芋のような形にあんこをつけたものもあるそうです。ちなみに、私の家は真ん丸にして、ちょっとだけ真ん中を指で押したものでした。
勝手に、あんこをたっぷりのせるから…と思っていましたが、聞いたところによると、月見団が丸は、お月さまの姿であり、まん丸すぎるのもよくないらしいです。
また、本来、お供えするお団子の数は
「十五夜」は15個。もしくは5個。
一番下の段から9個(3×3)4個(2×2)2個 3段に。
「十三夜」は13個もしくは3個盛ります。
一番下の段から9個(3×3)4個(2×2)2段にお供えします。
月見とすすき
ススキをなぜお供えするのか、ある意味、疑問をもたずに、そんなものだと思っていたのが、数年前の私です。
ですが調べていくと、ススキにも、意味があると知りました。
お月見の習慣は、中国から、中秋節として、奈良、平安時代の頃に、日本に伝わったものです。
当時の貴族たちの間では、杯に移った満月を眺めてお酒をのんだり、和歌を詠んだみたり、雅な楽しみとして流行したようです。
それが、江戸時代の頃には、庶民にも広まって、昔から日本にあった、収穫への感謝の気持ちと収穫の祭りが合わさったかたちで、全国に広まっていったのではといわれているそうです。
十五夜は、その年の秋の実りを祈願する日として、実りの前の稲穂またはススキを供えます。なので、供えるススキの穂は、開いていないものがよいそうです。それは「収穫前の稲穂」を稲に見立てているから。
また、豊作の象徴の稲穂は、月の神様を招く依り代(よりしろ)になる場所です。稲穂の見立てとしてのススキは、災いや病から家を守ってくれる厄除けの力があると信じられていたというわけです。
私たちが、子供の頃に何となく見ていた家庭内の行事の中には、実は日本人が大切にしている思いを、物に託し、時には、あやかりながら、暮らしの中に溶け込ませていたことに気づかされます。
お月見の行事は、旧暦8月15日の「十五夜」、9月の「十三夜」10月の「十日夜」とあって、全ての火が晴れて月をみることができれば、とても縁起がよいことだとされています。
今年 3回ともに美しい月が見られるといいですね。
「重陽の節供」
旧暦の九月九日は五節句のひとつ「重陽の節供」です。
別名「菊の節供」とも呼ばれています。
長寿や、一家の繁栄を願う中国由来の行事です。
陰陽思想では奇数は「陽の数」、そして「九」は最高の「陽」の数が重なる「重陽」と呼び、陽が強まりすぎて、禍が起きないよう、邪気を祓う風習が根付いたともいわれています。
日本でも、平安時代には邪気を祓うとされる菊の花を観賞しながら菊酒を飲んだり、または菊湯に入ったり不老長寿や繁栄を願っていたそうです。
なかでも宮中の女性がしていた「菊の被綿」の風習は、旧暦の9月8日(前日)に菊の花に真綿を被せておき、翌朝、うっすらと菊の香と露がうつった綿で身体を拭いて、長寿や無病息災を願っていたということです。ある意味、雅な行事だと思いませんか?
今回は、菊の花で被綿(きせわた)の風習を。盃に菊を浮かべて「菊酒」をイメージ。菊の型菓子・五色の紐
*(注意)菊酒をされる時は、必ず食用菊を使ってください。
お盆 令和5年8月
鹿児島のお盆と言えば8月13日~15日。
ご先祖をお迎えして、共に過ごし、そしてお見送りをする仏教の行事と言えます。
宗教の違いや宗派、地方による違いや、家に仏壇があるなしに関わらず、故人に思いを馳せる時間があるということに意味があるのかもしれません。
例えば、お部屋の一角に、故人が好きだった花や、愛用していた道具や本など置いてみるなど、思いを形に託して、表現することで、目に見えずとも、ご先祖様への感謝、身近な方との繋がり、自分自身の存在に気づかされることがあるかもしれません。
写真は、真菰(まこも)と呼ばれる草を使った敷物の上に季節の収穫物をお供えした盛り物です。
これは、生前、母が大好きだったトマト(枝付き)を選び、父の好きなへちまも、盛っています。
枝付きや、蔓物の植物には故人との親子の繋がりの気持ちを託してみました。
七夕 令和5年7月
日本の七夕には、日本古来の「棚機女(たなばたつめ)」*の伝承や、お盆行事に関わる禊(みそぎ)、夏の収穫を祝う農耕儀礼ほか、中国の「星祭り」、芸事や学問の上達を願う「乞巧奠(きこうでん)」などの行事の要素が、様々に複合しながら各地域の「七夕」の習慣となったようです。
1年に一度だけ、天の川で出会える牽牛(牽牛)と織女(しゅくじょ)の話をご存じの方は多いと思います。
そのお話も中国では織姫が鵲(カササギ)が連なって橋となって、それを渡って彦星に会いに行くという話になっているそうです。
日本では船に乗って彦星が織姫に会いに行くという話が多いようです。とはいえ、日本全国、地域によって、七夕伝説はいろいろとあるようです。
奄美大島の七夕伝説は、「天人女房」ということで、羽衣伝説と少し似たようなものとして伝わっているそうです。
天女の羽衣を隠し、夫婦になった男は、天に帰れなくなった天女と家庭を築き子どもをもうけます。ある日、天女は、羽衣をみつけ天に帰っていくのですが、置手紙を残していたため、男は天で一緒に暮らせるようになります、天帝は男が気に入らないため、ふたりを引き離そうと、難題を出すのですが、その度に天女が知恵を授けてうまくいきます。ある日冬瓜を割るときに、天帝が縦割りするように、織姫からは横割りに・・・と言われて、天帝の言うとおりに冬瓜を縦に切ったら、大量の水が出て、男は流されます。そんな中、天女が叫んだ言葉は・・・。「1年に1度会いましょう」と間違って聞いてしまった男が流されたのが、天の川というわけです。
*この話は奄美大島出身の知人から聞いた話を簡単にまとめたものですが、FMあまみさんほか、いろんなサイトでは、さらにくわしい内容が掲載されていました。また、日本全国の七夕伝説もあるのでそちらも興味があれば調べてみてください。
1年に一度だけ、会えるなんてロマンチックと思っていた幼い頃の私には、雨が降って川が増水したらどうなるのか?と母に聞いた覚えがあります。母は「天の水が地面に落ちてくるから大丈夫なんじゃないの?」と答え、私は「それなら、雨でもいいんだ」と妙に納得したことを覚えています。本当はどうなのか…今でもわかりませんが・・・。
今回の盛物は、奄美大島の七夕伝説を意識して冬瓜をいれて…。
収穫の感謝の気持ちと共に夏野菜を盛りました。
*「棚機女(たなばたつめ)」の伝承:神様を迎えるために、水辺に建てた機屋に入って神様に捧げる卯之を織る女性
和菓子の日 令和5年6月
6月16日は「和菓子の日」というのはご存じですか?
全国和菓子連合会が、昭和49年に制定しました。これは、かつて、お菓子を食べて、厄除けと招福を願う嘉祥(かじょう)という行事があったことに基づいています。
和菓子と聞いて、どんなお菓子を思い浮かべますか?
季節を取り入れた、色鮮やかな練切や、桜餅、かしわ餅のような季節の和菓子。
祖母や母親が手作りしてくれる素朴なお菓子。
鹿児島には“端午の節句”にかかせない灰汁巻きのように、歴史と共に育まれたものなどたくさんあります。
今回は、鹿児島のお菓子を7種あつめて盛りました。甘いものを食べると元気がでませんか?
梅雨の時期、体調を崩しがちです。
今年の和菓子の日は何か召し上がって厄をしてみてはいかがでしょうか。
先日、東京に行く機会があり、羊羹で有名な「とらや」の赤坂店へ行ってみました。
丁度、館内の赤坂ギャラリーで、企画展「和菓子でめぐる春夏秋冬展」が開催されていました。
そこには、1月から12月までの四季折々の生菓子の写真画像と、年中行事にまつわるお菓子の由来なども紹介されていました。
写真だけでも約200点近く並んでいると、圧巻でした。
色、質感、和菓子の銘をひとつひとつみていると、想像力豊かなお菓子職人の心も伝わってくるようでした。
さらに 貴重な資料の「御菓子之畫圖(おかしのえず)」(1707)が一部複製して展示してあり、それをみていると、色鮮やかなお菓子のデザインや、原料がわかるようになって歴史と技と美意識の粋を感じました。
▲写真は「和菓子でめぐる春夏秋冬展」で撮影したもの:とらや赤坂ギャラリー
6月16日は「和菓子の日」。
今は、鴨池小学校の校区内には、和菓子屋さんはなくなってしまいましたが、昭和の頃には、覚えているだけで、真砂のマーケット内や、真砂バス停のあたり、真砂湯の近くなどで和菓子を販売されていた記憶があります。
何でもない日常の中に、今思えば、季節の和菓子を見て、食べる機会が、身近にあったことはとっても贅沢なことだったのかもしれません。
今年の和菓子の日には「水無月」という和菓子を食べようと思っています。
このお菓子は、鹿児島でもこの時期には販売されているようですが、京都では6月30日の「夏越の祓い」の時には欠かせないお菓子だそうです。
三角形の白い“ういろう”に小豆がのっています。小豆の赤い色には邪気を祓うという意味が込められているということです。
普段、和菓子はたべないという方も、主菓子でなくても、“軽羹”“いこ餅”などなど、鹿児島には、昔から親しみある和菓子でも、お好みのものを、和菓子の日にちなんで、気軽に季節の行事をとりいれてみるのはいかがでしょうか?
これからやってくる、暑い夏を前に一息いれて、残り半年新たなスイッチをいれてみるきっかけにしてみるのもよいかもしれませんね。
端午の節句 令和5年5月
五月五日は端午の節句です。
奈良時代から続くといわれる古くからある行事です。
端午というのは、もとは月の端(はじめ)の午(うま)の日という意味で、5 月に限ったものではなかったそうですが…。
日本では端午の日に、病気や災いをさけるための薬草積んで邪気をはらったりする宮中行事がおこなわれていました。
この日に薬草摘みをしたり、菖蒲(しょうぶ)を浸した酒を飲んだりという 風習があったそうです。
のぼりなどを立てるようになったのは、江戸時代以降からで、男の子の生まれたことや、健やかな成長を願い、祝う行事へと変わっていったようです。
5月5日は「子どもの日」でもありますね。
子どもの日には定義があるというのはご存じでしたか?
国民の祝日に関する法律(祝日法)によれば、こどもの日は「こどもの人格を重んじ、子どもの幸福をはかるとともに、母に感謝する。」と明記されていて、実は母へ感謝する日でもあったのです。
端午の節句のあとには「母の日」がやってきます。これは、元々アメリカから伝わったもので、メジャーにはなっていますが、定義はないので祝日にはなっていませんよね。
今回は奉書で兜を折り、その横には、節句にちなんだお菓子を盛りました。
柏餅は、柏の木は新芽が出るまでは親の葉が枯れ落ちないことから親が子供の無事を願う気持ち。
♪鯉のぼりの歌詞にもでてくる粽(ちまき)は、鹿児島では灰汁巻きですね。
関ヶ原の戦いの際に島津義弘公が兵糧食とし持参したのが始まりといわれ、その後、端午の節句に作られるようになりました。
この時期に実がなる枇杷は「将来実を結びますように」との親心をこめて盛っています。
鹿児島のトカラ列島の中にある口之島出身の方が、今から40年近く前には、厄よけの菖蒲と蓬を屋根の上において厄除けをしたという話をきいたことがあります。
鹿児島市内では、みかけなかった為、私も本でみつけたことがあったり、勉強するまでは、全く知らないことでした。
ですが、日本各地でその行事はあるようです。
鹿児島ならではといえば、鯉のぼりの歌詞にある「粽(ちまき)」が、「灰汁巻き」ということでしょうか?
種子島では、ツノマキと呼ばれて、三角形の形のものもあると紹介されて食べたことがあります。
鹿児島県内だけでもいろいろな行事のあり方があると思うと、残していきたいと思わずにはいられません。
今年はコロナ後、南さつま市の坊津で5月5日に「からからまつり」があるそうです。
最近は子供の数が少なく、地域を越えて参加者を募ったりもするそうですが、年を重ねて感じることは、幼い頃には、わけもわからずに、いろんな行事に参加してみたり、目にしていたものが、大人になってその経験が思い出という形で心豊かにしてくれたり、あったかい気持ちにさせてくれるものだと感じます。
花まつり 令和5年4月
4月8日はお釈迦様の誕生を祝う日「花まつり」です。
仏教の行事としては、お彼岸やお盆などは、なじみが深い方も多いですが、花まつりはご存じない方も多いかもしれません。
「花まつり」は「灌仏会(かんぶつえ)」とも言われ、ほかにも、降誕会(ごうたんえ)、仏生会(ぶっしょうえ)、浴仏会(よくぶつえ)、竜華会(りゅうげえ)、花会式(はなえしき)ともいわれます。
花まつりのはじまりは、平安時代までさかのぼるといわれていますが、花まつりという言葉は明治時代以降といわれています。
今回は、お釈迦さまが生まれたといわれる“ルンビニの花園”のイメージを盛ってみました。
盛物の真ん中にあるのは、掌にのるほどの、小さな筍です。
“笋(しゅん)”とも呼び、これを「仏影蔬(ぶつえいそ)」として、お釈迦様の見立てとしました。
そのほか、鹿児島では指宿が産地として有名なそら豆を盛っています。
空豆は、さやの先が天に向かって実をつけます。別名:仏豆といわれているそうです。
そして、お釈迦様の爪を表わしているとも言われる銀杏(ぎんなん)を使って、お釈迦様のイメージをとりいれて表現してみました。
オレンジ色の金盞花(きんせんか)は仏華と言われ、平らに花開くその姿が平等を示しているとして活けています。
蓮の花を紙にかたどった“散華”もちらしています。
お寺では、花御堂とよばれる、たくさんの花で飾った小さな御堂に、仏灌桶と呼ばれる、たらいのような器を置いて甘茶で満たし、その中央に「誕生仏」を安置します。
これは、お釈迦様が生まれたルンビニの花園を表現したものです。
参拝者は、甘茶を誕生仏にかけて誕生を祝います。
これは、お釈迦様が生まれる時に、天から龍が現れて、香湯を降らせたといわれていることに基づいているとされています。
桜に続いて、春の花々が次々と咲き始める季節がやってきました。
お釈迦様の誕生を祝うことだけに限らず、日々の生活の中に、日常使いの器に花を活けて春の息吹を感じてみるのはいかがでしょうか?
ひなまつり 令和5年3月
3月3日は「上巳の節句」、「桃の節句」とも呼ばれる「ひな祭り」。
旧暦の3月は丁度桃の花が咲く頃でもあり、桃の花は、邪気を祓う花といわれています。
日本の伝統行事などには、中国の陰陽五行説の考え方と、深く関わりがあって「ひな祭り」もそのひとつと思われます。
中国では、3月3日、踏青(とうせい)」という儀式があり、厄や穢れを祓うために、青い草を踏み、酒を飲み交わし、川でみそぎをしていた儀式がありました。そして、日本では人の身代わりとしての「形代(かたしろ)に厄や穢れを移して海や川に流すという風習があって、それが合わさったのが「流し雛」といわれています。
写真は、煎ったお米や、ひなあられなどで、水や河原の石などの見立てにしています。
桃の花が咲く季節の“流し雛”をイメージしたものです。
私が幼い頃の思い出に3色の菱餅があります。
とても可愛がってもらった親戚が、毎年、ひなまつりの頃になると、3色のひし形のお餅をもってきてくれました。
その頃、従妹のおひな様🎎は立派な7段飾りだから三色の菱餅を飾る場所がありますが、私のお雛様は、コンパクトなガラスケース入りで、もらっても飾るところがないな…と思ったことだけは覚えています。
菱餅はひし形だから菱餅だと思っていたのですが・・・。
実は、おひな様に飾る3色の菱餅には意味が込められていることを知ったのは、ほんの数年前のことです。
白は水や雪の色を表していて、元は、菱の実を練りこんでいたといわれています。
緑は、雪解けのあとの母子草の緑色で、子孫繁栄や、長寿の意味を表現しています。元々、母子草を練りこんだ餅が、やがて邪気を祓うと言われる蓬(ヨモギ)を使うようになりました。
桃色は、魔除けの意味もある桃の花を意味しているそうですが、明治時代になり、くちなしで、赤く(ピンク)染めたそうです。それまでは2色であったようです。
餅の色の順番も下から、緑・白・桃色の順番になっているものが主流です。
そして、ひし形になっているのには、繁殖力の強い“菱の実”を模したものとか、真四角の端を2点伸ばして長寿を祈願した、心臓の形であるなど諸説あります。
いかがでしょうか?
おひな様飾りのひとつひとつに、それぞれの意味があり、さまざまな思いがこめられていることを知ると、何気なくみていたものにも、興味がでて、いとおしくなりませんか?
ひな人形をお持ちの方は是非 お飾りしてみてはいかがですか?
3月3日は過ぎてしまったから…と思われる方もあるかと思いますが、鹿児島ではひと月あとの4月3日まで飾っている家が以前は多くあったと思います。
でも、ひな人形は早めに出す方が・・・という話もありますしね・・・。
そんな方や、男のお子様だけというお宅は、ちらし寿司と、はまぐりのお吸い物で「ひなまつり」を味わうというのはいかがでしょうか?
節分 令和5年2月
2月4日は「立春」。
旧暦のお正月にあたり、その前日2月3日は「節分」です。
この日は、昔から邪気を祓って新しい年を迎える意味を含め豆まき」が行われています。
邪気の象徴である「鬼」は隠れて姿を現さないものとして「隠(おに)」とも書き、今回は、赤鬼の背中を描いた手ぬぐいを敷いて、鬼が逃げていくイメージです。
これは幼い頃に、目に見えない鬼にむかって父親が「鬼は外~」と力強い声で豆を撒くと、父を頼もしく感じ、目に見えない鬼が逃げていくような気分になっていた家族の思い出を重ねて盛りました。
鬼が去ったあとには福がやってくるそんなイメージです。
毎年 節分は豆まきと恵方巻きを食べます。というご家庭も増えていると思います。
昨年このWeb上でも、恵方巻を食べるなら…と、はじまりなどお伝えしたと思います。
恵方巻を食べるときはその年の吉方位を向いて食べるものだそうですが
今年の吉方位は…2023年の恵方は「南南東」
この方位は毎年違うということは既にご存じの方も多いかと思いますが、これはどうやってきめているのだろうと思ったことはありませんか?
恵方の方角は、その年の「干支」の「十干」によって決まります。
そもそも。
干支は、十干(じっかん)と十二支(じゅうにし)の組み合わせによって成り立っているものです。
私たちが通常よくいう干支は、動物にあてはめた、子丑寅・・・今年うさぎ年だね、辰年だね という動物名ですが、これは、十二支のほうを指しており、正確にはそれだけでは「干支」とは呼べません。
ちょっと聞きなれない「十干」とは、元々、陰陽五行説からきていて、十干は十二支に比べるとなじみが薄いかもしれませんが、もともとは1から10までを数えるための言葉です。
「甲(こう)、乙(おつ)、丙(へい)、丁(てい)、戊(ぼ)、己(き)、庚(こう)、辛(しん)、壬(じん)、癸(き)」の10種類があってそれを割り振ったものといえます。
例えば 今年は
「癸卯(みずのとう)」の年ですが、丙午(ひのえうま)と言葉はよくきくことがあるかと思います
十干 ・・・「癸」 と 十二支・・・「卯」
十干 ・・・「丙」 と 十二支・・・「午」 ということになります。
このような周期が60年に1度やってきます。組み合わせが60通りあるということですね。
そして、恵方の方角は「十干」によって決まります。
もっと解りやすくいうと、西暦の下一桁で決まっているということともいえます。
それはどちらも同じ周期でまわっているからだそうです。
十干(じっかん)でみると
- 「甲・己」の年は「東北東」
- 「乙・庚」の年は「西南西」
- 「丙・辛・戊・癸」の年は「南南東」
- 「丁・壬」の年は「北北西」 と4つの方角となるそうです。
ということで 2023年!恵方の方角は南南東です。
今年は、値上げの話題などが家計に響く話題を多く耳にしますが…。
なんとなく運気アップや恵方というワードにあやかってみようかな?と思う私です。
豆まきもちょっと大きな声で、そして太巻きも必ず食べて、神社にもお参りして厄除けしようかなっとびっしりと計画済です。
皆様はいかがですか?
鬼柚子・鬼の手ぬぐい・すりこぎ棒・ミニチュア鬼瓦・陶器の鰯・福酒・柊・落花生
正月 令和5年1月
お正月には、鏡餅、おせち料理、門松をたてる…。
新しい年を迎えるという気持ちは、日本人にとって、特別な気持ちにさせてくれますよね。
一月は、正月とも呼びますが、それは「正」が年のはじめ、年の改まる意味にも由来するからだそうです。
今回は、お正月に使う野菜を取り入れた、めでたいもの尽くしの盛物にしてみました。
壁には南天に兎が描かれた手ぬぐい。
長板には、柑橘の“きつ”が吉につながるとして大きな「ぼんたん」吉を呼ぶものとして。
また、芽を出した紅白のカブには新芽を出して、“芽が出て”「おめでとう」の意味に。
大根やれんこん、銀杏(ぎんなん)の「ん」は運を、南天・雪うさぎを頭にのせたかわいい“うさぎの達磨(だるま)”は跳ねるほどによい年となりますようにと願いをこめて盛りました。
花器には水仙と葉ボタンで春の訪れを…活けてみました。
冬至 令和4年12月
先月までは、例年に比べて、寒さはゆるりとやってきていると感じていたのに、12月に入り、仕事を終えて家に向かって歩いていると、もう、真っ暗です。
夏場の今頃は明るかったのに…。
いつの間にか、日の落ちるのが早くなったな…と思うと、暗闇が寒さを連れてきているような気になります。
「今年も残り少なくなったな…」と実感していらっしゃる方も多いのではないでしょうか?
私が季節の行事に目を向けるようになって、暮らしの中に、これは絶対にとりいれたいと思ったものが、「冬至」でした。というのも、鹿児島では、毎年テレビで温泉♨︎に柚子が浮かんでいる映像を見て「冬至」を知るくらいで、深く意味もわからずにいました。皆様の冬至のイメージはいかがでしょうか?
―冬至とはー
1年を太陽の動きに合わせて24等分した二十四節気。そのため、冬至は固定した日ではなく、毎年12月21日前後になります。そして、今年は12月22日です。
「冬至」は、1年で一番昼間の時間が短い日です。この日を境に少しずつ日が長くなります。二十四節気は冬至を起点としていたことから「冬至正月」とも言われています。
太陽の動きを信仰の対象や暦の基準になっていた中国や日本で取り入れられていた二十四節気では、冬至は太陽の力が一番弱まる日とされ、この日を境に陰が極まり再び陽にかえる日「一陽来復(いちようらいふく)」とも言われ、運が陽に転じる日と言われています。
―今回の盛物について―
↑かぼちゃ・柚子・小豆・丸餅・赤唐辛子・隼人瓜
冬至といえば「かぼちゃ」と「柚子」はイメージしやすいかもしれませんが、「小豆」の赤い色は厄除けの意味に。「赤唐辛子」はその形に一陽来復の意味で太陽の光の意味を託し、それぞれの意味があり、冬至には外せないものと言えます。写真ではお盆の上に白餅を12個盛って、1年12か月を表現しています。左下の隼人瓜は、南のほうから春を運んでくるイメージです。写真ではわかりにくいのですが、芽をだして新しい年を迎えることを表して(新芽が出ています)おめでとうの意味をこめています。
かぼちゃは、南瓜とも書きますね。カンボジアから南京の港を経て来たからなど諸説あります。“南”の文字には暖かさの思いも込められ、蔓もの野菜なので、代々の繋がりも託します。かぼちゃは、長い期間保存が可能な食材だったため、冬にも食べることができたことからかぼちゃを食べることに結びついたとも考えられているそうです。
小豆は、昔から効果効能が知られていて、中国では、冬至に厄払いのため小豆粥を炊いたという風習もあったようです。私は、小豆というと、おはぎとか、ぜんざいなど甘い味にすることが多いのですが、冬至の日は、かぼちゃと小豆を煮物にした「かぼちゃのいとこ煮」にして食べられる家もあるそうです。皆様のお宅ではいかがですか?
今年の冬至はご紹介した盛物のようにお餅までなくても、かぼちゃと柚子と小豆、唐辛子この4つだけでもお皿やお盆に盛ってみるとか、かぼちゃのお料理を食べてみる。柚子湯で身体を温める。何かひとつでもぜひ、とりいれてみてはいかがでしょうか?
七五三 令和4年11月
写真 七五三の帯・抱え帯・筥迫・末広・千歳飴・榊/麻紐・柿(嘉来よろこびきたるの意味)
11月15日は「七五三」です。
最近は、この日に限らずにお祝いをする方も多いそうです。
私は、3歳の頃に着物を着て、祝ってもらっていたことは写真に残っているものの、覚えていません。ですが、弟の七五三の時に、袴姿で父の帰りを待ちくたびれていた弟の様子と、夕方遅く、照国神社にお参りして、なぜか、暗い中、家族写真を撮ったことを鮮明に覚えています。
どちらかというと、私たちの頃は「七草祝い」の方が盛んだった印象がありますが、皆様はいかがでしょうか?
七五三は、公家や武家で行われていた儀式が由来とされています。
【三歳の髪置き】平安時代から続いていた儀式で、3歳になるまでは髪を剃っていたが、それ以降、剃らずにのばしはじめます。
【五歳の袴着】初めて袴をはかせる。
【七歳の帯解き】着物につけていた付け紐を外して、初めて帯を締める。
これらの儀式が明治以降一般に広がったと言われています。
この写真は、千歳飴が入っていた榮太樓總本舗の袋と一緒に盛りました。
袋に描かれている稚児の絵は七五三を表現しています。
真ん中の鈴は、持ち手側から鈴が7つ、その上が5つ、その上が3つついています。
これは、七五三の時には、鈴の音が履物をはきませんでしたか?
私が七五三で使ったものです。千歳飴と共に盛りました。
タンスの奥に、3歳の時にきた着物と、7歳の時に締めた帯などをみつけました。
和のいろんなことを学ぶにつれ、日本人は、文様や、形、物に関して、いろんな思いを形に表現してみたり、思いを託すことを、自然に取り込んでいることが多いことに気づきます。
この、七五三の衣装にしても、着物好きだった母が、購入するときに、呉服屋さんで、柄の意味を聞いて、色をみて・・・お財布事情も含めて、いろんなことを考え、選んでくれた着物のはずです。偶然なのか、母なりに考えたのか?今では聞くこともできませんが、3歳の時の着物、7歳の時の帯の両方に鶴の模様がたくさん入っていました。
鶴は七五三や結婚式の衣装にはよく用いられる柄でもあるようです。「鶴は千年亀は万年」ということわざもありますが、「長寿」の意味や、鶴の鳴き声は声が高く神様がいる天まで届くと言われてきたこともあって「人間と神様を繋ぐ存在」「夫婦円満」の意味があるというのは、よく知られています。
両親は、子どもが鳥のようにはばたく人生をという願いをこめたのかもしれません。クリーニングもされ、丁寧にたとう紙に包まれた、小さな衣装を見つけた時に、大切に残していたことにびっくりしましたし、何より親の思いが託されていると思って見ていると、時を経たサプライズに親心が伝わってなんとも言えない気持ちが溢れました。皆様の家にも、ご自身やお子様のものがタンスにしまってあるかもしれませんね。
最近は、お祝いの日にちも、10月・11月の都合のよい日程に合わせたりするようです。また、着物の柄は古典柄とは違うものも増えて、デザインや色も様々あるようです。とはいえ、子どもの成長を願う気持ちは変わりないはず。いつもと違う衣装を着ているという気持ちは子どもながらも特別感を感じるのでしょうか?
嬉しそうなお子様の手をひいて親子で歩いている姿はとてもほほえましいものですよね。今年もまた、そんな情景に出会えたらと思っています。
十三夜 令和4年10月
今年、9月10日の十五夜はどのようにすごされましたか?
今年は、中秋の名月と満月が重なったこともあり、きれいなお月さまをご覧になった方も多かったのではないでしょうか? 昔は、小学校の校庭に相撲場がある学校が多かった気がします。私が通っていたころの鴨池小学校の校庭にもありました。十五夜には、綱引きと、相撲をした覚えがあります。男子と同じような相撲でなく、女子は片足で“けんけん相撲?”をした覚えがあります。相撲の勝敗は覚えていませんが、十五夜の行事から家に帰ってくると、縁側には、母と一緒に作ったお団子、里芋や果物などが盛られ、焼酎の一升瓶にススキがいけてありました。昭和30年~40年代の頃に出版された、鹿児島県内の行事をまとめた本などには、十五夜には、綱引きの行事が県内のいろんな場所で行われていたと書いてあります。知覧町では、今でも十五夜に行われている「ソラヨイ」という行事のことや、南薩の十五夜の写真には、木臼の上に箕をのせ、そこに升に里芋、花瓶ススキを生けてある写真が掲載されていました。東京に住む知り合いは、ススキを焼酎瓶にいけているのは、初めて聞いたと言っておりましたが、私にとっては、それが普通だと思っていました。世代の違う友人も焼酎瓶を使っていたという人が多いようでした。住んでいる土地や家によっても違いがあるのかもしれません。皆様はいかがでしたか?
どちらが正しいということでなく、私が育った地域では、とか、自分の家ではこうだったという、ものがあれば、それを伝えていくことに、意味があるのだと感じます。
【十五夜の別名は】
十五夜は旧暦の8月15日、中秋の名月とも呼ばれますね。昔は7月~9月が「秋」とされていたので、丁度真ん中の8月は「中秋」と呼ばれました。
十五夜は別名「芋名月」とも呼ばれています。皆様の家でも盛物の中に、ぶどうなどの果物以外に、里芋やさつまいもを一緒に盛る方も多いと思います。里芋は親芋からたくさんの子芋孫芋と増えていくので、子孫繁栄を願う縁起の良いものと言えます。
【十三夜について】
日本には、四季折々の自然を感じて暮らす中で、秋の実りに感謝する風習のお月見。そして、秋の澄んだ空気の中、綺麗な月を見上げて月を愛でる風習があります。
最も暮らしに根付いているのが、十五夜ですが、それ以外に「十三夜」「十日夜(とおかんや)」という行事があります。「十三夜」は、別名“豆名月”“栗名月”とも呼ばれ、旧暦の9月13日の(今年は10/8)に祝います。十五夜、または十三夜のどちらかしか観ないことを「片見月(かたみづき)」とか「片月見(かたつきみ)」といわれ、縁起が悪いと言われているそうです。
↑今年の十五夜の写真(焼酎瓶がなくて花瓶にススキを活けました。
“十五夜”は中国伝来の風習ですが、“十三夜”は日本で始まった風習といわれており、そのはじまりには諸説あるのですが、平安時代に醍醐天皇が月見の宴を催し、詩歌を楽しんだことからというのが定説のようです。昔は、日本人は、月の満ち欠けで月日を知り、それを農作業の目安とし生活と密接なつながりがありました。そして、月の美しさや畏敬の念は、多くの歌人にも詠まれています。今でも月は日本人の暮らしの中にあり、心のよりどころにもなっている部分があるような気がします。十五夜では月の神様に豊作を願い、十三夜は、稲作の収穫を終える地域も多いことから、秋の収穫に感謝しながら、美しい月を愛でるという風習ともいえますね。
【月の数え方は…】
旧暦は、毎月新月から数え始めるので、新月から数えて、14日目~17日目が満月です。十五夜は新月から数えて15日目なので満月、もしくは満月に近い月ということになります。今年の十五夜は、丁度満月にあたりました。十三夜は新月から数えて13日目なので、満月には少し欠ける月です。十三夜は、十五夜の次に美しいと言われています。
【お団子の盛り方について】
お団子の盛り方としては、下記の写真のように皿の上に置いていきます。十三夜の時は、一段目に9個。2段目に4個並べます。
お団子は、右側の下(手元から)から上へ置いていきます。2列め3列めも下から上に3こずつ並べます。2段めは4個、同じように下から上に2列2個ずつ並べていきます。 (十五夜の時は3段目に2個並べておきます)お団子の数は、十五夜には15個か5個、十三夜は13個か3個をお供えします十三夜のお団子の形は、真ん丸に丸めたあと掌で、ほんの少し押さえて、真ん丸にはならないようにします。
① 下から上へ
②
③
④
【十三夜にお供えするものは】
↑写真のお団子の上には“栗名月”にちなんで、栗の実をおいてみました。
月見団子は、お月様から見えるところもしくは、床の間にお供えを。その時は、合わせて、収穫された旬の果物や野菜をお供えし、秋の実りに感謝します。旬を迎える梨や柿と言った果物や栗名月にちなんで栗を盛るのもよいですね。因みに、写真の盛物は、いが栗(いがの中の実が3個で栗1つ分と考えます)豆名月にちなんで、なた豆・また季節の収穫物として、梨と柿を盛っています。梨の別称は“有りの実”。これは、梨の読みが「無し」の音に通じることから、対義語の「有り」という表現とします。柿は、“嘉来(よろこびきたるの意味で)”一緒に盛りました。
十五夜同様に神様の依代となる、ススキや稲穂などを添えられればこの季節の“実り”に感謝する気持ちが通じる盛物となります。
◆2022年の「十三夜」は10月8日(土)
十三夜は、旧暦の日付で定められているので、毎年同じ日とは限りません2022年の十五夜は9月10日(土)、十三夜は10月8日(土)です。片月見とならないよう、両日とも、お月見を楽しんでみてはいかがでしょうか?
重陽の節供 令和4年9月
菊と秋草模様のお盆の上に、菊の花を使って“菊玉”をつくり菊形皿に盛りました。
9月9日は五節供のひとつ「重陽の節供」。「菊の節供」とも呼ばれています。
長寿や、一家の繁栄を願う中国由来の行事です。
陰陽思想では奇数は「陽の数」。
そして「九」は最高の陽数とされ、その奇数が重なる9月9日は、「陽」が重なると書いて「重陽の節供」と言われ、不老長や繁栄を願う大変おめでたい日とされています。
江戸時代には五節供のひとつに制定されたものの、桃の節供や端午の節供のように、今の私たちの暮らしに深く根付いていないのも現実で、ご存じない方も多いと思います。
本来「重陽の節供」が行われていた時期は、旧暦の9月です。
現在の暦でいうと10月中旬くらいです。
菊の花が咲き揃う時期ですね。
「菊の節供」と言われる所以でもあるかと思います。ですが、新暦の9月は菊が咲きそろうには少し早いですし、農耕の収穫期にあたり収穫祭に習合されたものもあり、地方によりさまざまな風習が伝えられているようです。
聞き馴染みのあるものに、長崎や唐津で行われている「おくんち」が新暦の10月に今も行われていますが、それも名残といえます。
― 菊が意味するもの ―
古来、中国では菊は不老長寿の薬としても栽培され、延寿の力があったとされてきました。菊の露を飲んで不老不死の仙人となったと言われる「菊慈童」の伝説もあります。
日本でも、菊は日本の国を象徴する花でもあり、さまざまなモチーフにもなっています。
中国由来の行事ではありますが、日本では、平安時代には菊の花を観賞しながら、お酒に菊の花を浮かべた菊酒を飲むほか「菊の被綿(きくのきせわた)」の風習が宮中行事として定着していたと言われています。
菊の被綿(きせわた)とは、9月9日の前日の晩、菊の花に真綿を被せておき、翌朝、露でしめらせた綿を使って顔や身体を拭き、長寿を願っておこなっていた行事です。
皆様にとっては、菊の花のイメージはどうでしょうか?
私は幼い頃、毎年のように祖母が「島津の殿様のところへ菊を見にいきもんそ」っと何度となくほぼ強制的に仙厳園の「菊まつり」に親戚と一緒に行った記憶があります。
私がはじめて「菊」を意識してみた時でもあります。菊人形や、大輪の菊が印象的でした。もちろん、当時の私には菊を愛でる気持ちはなかったのですが…。
今月は「重陽の節供」という少し聞きなれない行事のことを書きましたが、今年の9月9日は、ぜひ、“菊”にまつわる食器でも、お菓子を食べてみる、1本でもよいので菊の花を飾ってみるなど、「菊」にあやかって、ご家族健康や長寿を願ってみるのはいかがでしょう。
先人が行ってきたエッセンスを少しでもとりいれることで、意味ある1日となるのではないでしょうか
お盆 令和4年8月
コロナの感染者数が急激に増え、気になるところですが、お盆に里帰りを計画していらっしゃる方も多いと思います。鹿児島では8月13日~15日に行われ、お盆休みの所も多いですね。鹿児島は日本一お墓のお花にお金をかけるといわれています。お墓参りに行くと、お盆に限らず、きれいなお花が供えられています。
【お盆について】
お盆はご先祖様がお戻りになるのをお迎えし、共に過ごしおもてなしをして、お見送りをする仏教の行事。
お盆とは、盆に迎える霊への供物を盛る器に由来しているとか、「仏教盂蘭盆経」の盂蘭盆(うらぼんえ)の略ともいわれています。「盂蘭盆経」とは、かなりわかりやすく言うと、釈迦の弟子の目蓮が7月15日、修行の最終日に大勢の僧に飲食(おんじき)を供養したことで、餓鬼の世界に堕ちた母を救ったとするもので、インドから中国をへて日本へ飛鳥時代に入ってきたと言われています。
*盂蘭盆:サンスクリット語のullambanaに由来し、倒懸(さかさづり)を意味しており、死者を倒懸の苦しみから救おうとする供養を盂蘭盆会とする説があります。(諸説あります)
【迎え火・送り火・精霊馬】
私が、はじめて迎え火や送り火を意識したのは、小学生の頃でした。お隣に住むお姉さんが、8月13日の夜に、迎え火をしていて「ご先祖様が天国から帰ってくるからお家はここよと教えているの」と教わり、黙って炎をじっと一緒に見つめていた思い出があります。数分の時間でしたが、「亡くなった人が帰ってくる??それって幽霊なのかな??」でも、お姉さんは怖がっている様子もなく、何か不思議な気持ちになったけれど、家の中に何かがはいってくるのだと思っていた記憶が強く残っています。
↑写真の木は麻がらですが、鹿児島では松明を使いますね
写真は、ほうろく(素焼の皿)に、炎にみたてたホオズキで、迎え火の思いを玄関に盛ってみました。その横には、「精霊馬(しょうろううま)」を置きました。
私が幼い頃には、「精霊馬」を見かけていないため、地域の方や、友人にも聞くのですが、昔はこういうことはしていなかったと聞きます。地方にもよるのかもしれませんが、関東方面では昔から「精霊馬」の風習はあったようです。これは、きゅうりとナスで馬と牛にみたてたものです。「精霊馬」とは言っても、馬だけでなく、牛も必ずセットにします。これは先祖がキュウリの馬にのって早く帰ってきて、そしてナスの牛は荷物をのせゆっくりと帰るためとも言われていて、地方によって違う解釈もあるようです。
とはいえ、迎えの日には外から帰ってくるご先祖が入ってくる玄関や窓の近くに、頭を家の内に向け、送りの日には外に向けて置きます。役目を終えた「精霊馬」は、食材としては新鮮ではなくなっていますし、ご先祖様に用いた物と考えるから食べないものだそうです。塩で清めて紙に包んで可燃ゴミとして処理をするのが望ましいと思います。◎地域の慣習や、宗教の宗派などにより、それぞれのご家庭で受け継がれているやり方があると思います。
【ご先祖様へのおもてなしの気持ちを】
写真は床の間に季節の野菜や果物と盆花をおいたものです。亡くなった両親が好きな果物と野菜を毎年必ずおぼんに盛っていますが、この写真では、床の間に「真菰(まこも)」と言われるゴザのようなものを敷き、その上にスイカや桃、ナス、ヘチマ、サツマイモ、母の大好きなトマトを盛りました。枝付きのプチトマトは、これは蔓(つる)=繋がりの気持ちを託しています。
鹿児島では、私が知る限りでは「真菰」を敷いてお供えをする習慣はないかもしれません。
去年 たまたま、真菰についてのお話を聞くことができ、用意してみました。
聞くところによると、昔の人は、ご先祖様は天から家に戻ってきても地に足をつけるということでなく「中空(なかぞら)」という天と地の間のいると考えられていたこと。水の表面を中空として、水草の真菰を使って、ゴザを編みそれを中空に見立て、ご先祖様がそこに戻ってくるという深い意味があるようです。
【思いを物に寄せて形に…】
↑両親が好きな夏野菜と母が使っていた数珠を添えました。
私が、お盆になると、迎え火や盛物などをするようになったのは、両親が亡くなってからです。
それまでは、祖母の家や親せきの家でお盆を過ごす中で、夏野菜など仏壇の前や横に台を置いてお供えしていたこと、祖母が「お肉を食べるものではない」と話していたことなど、それがどういうことなのかも深く考えたこともありませんでした。何十年も経って、お盆は、今は亡き大切な人たちが家に戻ってくるのだと考えると「お掃除をしないと怒られそう」とか、両親の好な物を買い、“お団子”は欠かせない、そう思って1年に一度、私なりに準備をしています。そうすると、何となく気持ちもすっきりします。そして、毎年仏壇の前では、なんとなく近くにいてくれるような気持ちになって話しかけてしまいます。(笑)
お盆は、宗教の違いや、地方独特の過ごし方やしきたり、皆さまそれぞれの考えがあるので、こうするものと決められないものと思います。ただ、この期間は、先祖や、家族、友人、ご自身の中で心に浮かぶ方へ思いを形にする機会と考えれば、家に仏壇が有る無し、宗教宗派に関わらず、お部屋の一角に、思いを馳せ、故人が好きだったものや、愛用していたものなど、花や、野菜や果物と一緒に盛ってみる時間を作ってみてはいかかがでしょうか?
目に見えるわけではないからこそ、思いを形に託して、表現するとで、ご先祖様への感謝、身近な方との繋がりや、自分自身の存在をあらためて気づかされることがあるかもしれません。
七夕 令和4年7月
「七夕(たなばた)」は、“しちせき”とも呼ばれ五節句のひとつです。
奈良時代には、七夕行事が行われていたと言われています。江戸時代に、広く一般に拡がったといわれていますが、それ以前は宮中での行事として行われていました。
七夕と言えば、1年に一度だけ、天の川で出会える牽牛(けんぎゅう)と織女(しゅくじょ)のお話(織姫と彦星という方がわかりやすいでしょうか)はご存じの方も多いかと。
実は、日本の七夕の源流には、日本古来の「棚機女(たなばたつめ)」*1の伝承や、また、盆行事に関わる禊(みそぎ)、夏の収穫を祝う農耕儀礼ほか、中国の「星祭り」や、芸事や学問の上達を願う「乞巧奠(きこうでん)」などの行事の要素などが、様々に複合しながら各地域の「七夕」の習慣となったようです。
七夕は、旧暦の7月7日の夜のことをいいます。私が幼い頃にはひと月遅れの8月7日に行っていました。鹿児島ではそうだったようです。最近は、情報が行き交う中で、旧暦とか、地方ならではの慣習も画一化されてきているからか、鹿児島市内の店舗などでも、7月に七夕のかざりをみかけることがあります。鹿児島は、7月の上旬は、梅雨の真っ最中ですし、8月7日の方が織姫と牽牛も雨が降らない方が会いやすいのでは?なんて思ったりもします。
さて、七夕は、皆様にとってもメジャーな伝統行事ですので、何かしら思い出がある方も多いのではないかと思います。
ちなみに、私は、真砂マーケットの中にあった文房具屋さんに、「○○ざます」と話す店主のお店がありました。
そこは、七夕の前になると、様々な飾りが売り出されていて、紙で作られた茄子やきゅうり、パイナップルなどカラフルな飾りがたくさん並んでいて、母にねだったことを思い出します。
そして、幼い頃の私にとっては短冊に願い事を書くのがとっても楽しみで、願い事が多くて、母にせかされながら書いていた覚えがあります。
思えば、その頃、願ったことは全て叶うと思い込んでいる純粋な子供の頃が懐かしく感じます。
―色の意味を知って願いを書く五色の短冊―
♪五色の短冊~ という五色とは、青(緑)、赤、黄、白、黒(紫)です。
これらの色には、陰陽五行の考えに基づいた、それぞれ意味があったことはご存じですか?
日本の伝統行事には、この5色の意味をとりいれて表現されています。
- 青の短冊⇒自然の緑を表現している「木」
- 赤の短冊⇒火を表現している「火」
- 黄の短冊⇒大地を表現している「土」
- 白の短冊⇒地中に埋まっている金属を表現している「金」
- 黒(紫)の短冊⇒生命を育てることを表現している「水」
*陰陽五行説とは*
陰陽説と五行説を融合した古代中国の考え方で、陰陽説とは、自然界、宇宙に存在するもの、現象は全て「陰」と「陽」という相反するものに分けられ、あらゆる現象はこの「陰」と「陽」によって起こるという考え方です。また五行説とはこの世の自然はすべて、木・火・土・金・水の5つの元素から成り立っているという考え方。そして、この色は陰陽五行説の5つの元素の特徴をあらわしています。
さて、七夕の短冊の5色は中国の陰陽五行説に由来していることはわかりましたが、さらに五常「仁・礼・信・義・智」の考え方があります。具体的にご紹介します。
- 青の短冊⇒「仁」 思いやり(人間力を高める、徳を積む)
〇〇が上手くなりたい・○○ができるように頑張りたいといった自分自身の成長を願う
- 赤の短冊⇒「礼」 感謝(祖先や親ほかに感謝する気持ち)
家族が健康でいられますようにといった家族に関する願いごと
- 黄の短冊⇒「信」 誠実でうそをつかないこと(人を信じ大切に思う気持ち)
○○がみな仲良くできますようにといった仲間や人間関係の願いごと
- 白の短⇒「義」 私利私欲で行動しないこと(義務や決まりを守る気持ち)
今年こそ○○を達成するなど約束や決まりに関して願いを書くのがよい
- 黒の短冊⇒「智」 学業にはげむこと(学業の向上などを願う気持ち)
○○資格に合格できますようにといった学業に関しる願いを書くのが良い
その願いごとにあった短冊の色で願いを書くと叶いやすいとも言われています。
今まで、色を意識して願い事を書いていた方は多くはないような気がいたします。もう何年も短冊に願いを書くことをしていない…という方も、毎年書いている方も、今年は色に合わせて願いを書いてみてはいかがでしょうか?
盛物;糸巻・短冊・梶の葉にみたてた奉書・五色の筆・(夏の収穫):なす・きゅうり・枝付きとまと・生姜・グレープフルーツ
梶の葉は、鹿児島ではあまりみかけないのですが、平安の貴族たちは、梶の葉にねがいごとを書いていたそうです。梶の葉にかたどった奉書と短冊、五色の色が穂先にも色付けされている筆といっしょに。そして、織糸を巻いた糸巻は棚機女や織姫のみたてで。夏野菜は収穫への感謝を表し、グレープフルーツは柑橘系のかんきつ→「吉」へとみたてて、五色の色で揃えました。
*1:「棚機女(たなばたつめ)」
日本には、昔から旧暦7月7日に、人里離れた水辺の小屋に、機織りをする乙女がこもって、神様へ供える為に布をおりました。その布を7月7日夕刻に神棚にお供えしていました。ここでは、神様をむかえてまつり、送る日には人々の穢れを神様に託して、穢れを持ち去ってもらう祓の行事が行われていました。棚機とは棚の構えのある機(はた)のことで、その機で布を織る女性を棚機女(たなばたつめ)と言いました。このことから、お盆に祖先の霊を迎える前の禊の行事だったことにもよります。
嘉祥菓子 令和4年6月
【嘉祥菓子って何だろう?】
と思われる方も多いのでは?と思います。
この行事は「桃の節句」「端午の節句」「七夕」などのようなメジャーな行事といえるほど暮らしの中に浸透しているとは言えないと思います。
6月16日に神様にお供えして、日々の感謝をし、少し改まってお供えしたお菓子をいただきます。
私がこの言葉を知ったのも数年前です。
「嘉祥」=めでたい印 という意味もあるそうです。が、この行事のはじまりについては諸説あり、確定できていないようです。
【諸説あり】
老舗の和菓子屋さんが紹介している文書をみてもいろいろあるようです。
そのひとつに、
847年の陰暦6月16日に16個のお菓子や餅を神に供えて、その後、食することで疫病退散を祈願する「嘉定喰(かじょうぐい)」と呼ばれた行事が行われたことがはじまりという説。
また、全国和菓子協会によると、
848年(承和15年・嘉祥元年)の夏、仁明天皇がご神託に基づいて、6月16日に16の数にちなんだ菓子、餅などを神前に供えて疫病を除け、健康招福を祈誓し「嘉祥」と改元したという古礼にちなむと紹介。6月16日を「和菓子の日」としています。
羊羹で有名な老舗の「とらや」さんにあるお菓子に関する資料の中に、江戸時代に将軍から大名や旗本にお菓子を配る様子を描いたものが残っているそうです。将軍が直々に渡すのですからお菓子が貴重であったことも伺えますね。
↑鹿児島のお菓子7つと三宝に嘉祥饅頭を盛ったものと季節の花
↑鹿児島の郷土菓子7種。三宝に盛った嘉祥饅頭を上から撮影
*実際にはフ透明フィルムを外して盛ります。
↑5色の嘉祥饅頭は、陰陽五行の思想の五常の心(仁義礼智信)(東西南北と天)の5つを指しており、神仏にお供えするにはお祝いの最高の形ともいわれます。
【和菓子にまつわる思い出ってありませんか?】
つい最近まで放送されていた、NHKの朝の連続ドラマ「カムカムエヴリバディ」の影響もあってか、にわかに注目を集めた“うめぇうめぇあんこ”と“回転焼?”(今川焼?大判焼?様々な名称があるようですが)私が幼い頃(昭和です)真砂には、私が覚えているだけで2軒の和菓子屋さんの店舗がありました。よね…。
店舗の名前は憶えていませんが、そのうちの1軒は、季節の和菓子のほかに、店頭で回転焼きを販売していました。
その記憶は、はっきりしています。なので、NHKの朝のドラマで出てきたシーンのいくつかに、そのお店との共通点があり、自然とその頃を思い出しながら見ていました。
深津絵里のような人ではないのですが、看板娘のお姉さんにとても可愛がってもらい、回転焼と和菓子が大好きになったきっかけでもあります。
回転焼きの型の中にシュッシュッと生地をいれるのをみるのが好きでそばを離れずにみていた記憶があります。
季節感のある和菓子がガラスケースになんでいて、桜餅・うぐいす餅・水羊羹・練きりなど小さなお菓子の中に様々に手をかけて仕上がっていく和菓子の美しさを教わったのも、このお店のご家族のおかげ様だと今更ながら感じます。
さて、今年の6月16日、あまり和菓子には馴染みがないと思われる方も、「今日は和菓子の日よ!」と、季節の和菓子でも、郷土菓子でも何か1種類でもよいので、ご家族で食べてみてはいかがですか?
ドラマの中でも言っていましたが、お菓子を食べながら怒っている顔の人はいない…。
ご家族揃ってお菓子談義をしてみる…。
なんでもないような話や時間が、ふと思い出す“家族との思い出”だったと改めて感じる日があるかもしれませんね。
今年、私は母との思い出深い“いこ餅”と、フワッフワの“ふくれ菓子”を職場に持って行ってみよう!と決めています。
端午の節句 令和4年5月
5月5日は五節供のひとつ「端午の節句」。
男の子の健やかな成長と健康を願ってお祝いをする日でもあり、こどもの日でもあります。
端午の節句行事は、日本古来の自然信仰や農耕行事そして中国から伝わった陰陽五行の思想などが盛り込まれた行事です。
年に五回ある節句(五節句)には邪気が近づきやすいとされ、厄除けの意味もあり、さらに祓いの日でありました。
「端午」とは、「初めの午(うま)の日」という意味を持っていて、「節句」というのは季節の変わり目のこと。
午(うま)は、五(ご)とも読めることから、5月5日が「端午の節句」として奈良時代以降に定着していったといわれています。
男児の節句と考えられるようになったのは、武家社会が発展していった鎌倉時代以降であると考えられます。
*それ以前については、また別な機会に
「鯉のぼりについて」
最近は、童謡にでてくるような♪屋根より高い鯉のぼり~♪は見かけることが少なくなりましたね。
私にとって、象徴的なのは、子どもの頃にみた、五月の空に力強く泳ぐ大きな「こいのぼり」です。
弟が生まれた翌年、今思えば初節句だったのでしょうね。近所の方や、両親が弟の為に庭の一角に場所をつくり、深く深く土を掘っていった事と、鯉のぼりの鯉が最初2匹だったのが、母がどうしても2匹では嫌だと言っていたことをとても鮮明に覚えています。
母が親戚にでもせがんだのか、いつのまにか3匹泳いでいました。となると、私は私の分がいない、家族は4人家族なのにと、子供ながら不満に思って泣いたこともあった記憶があります。
【こいのぼりは、いつごろから?】
鯉のぼりをあげるようになったのは、江戸時代以降の風習と言われ、最初は紙に描いた鯉の絵であったようです。
それ以前は幟(のぼり)や旗指物や、五色の吹き流しなど魔除けの意味もあって、あげていました。
江戸時代、中国の“鯉が滝をのぼりきると、竜になる”という【登竜門】の故事によるものという説と言われています。
逆流の中でも立ち向かい、成し遂げる鯉の姿に男児の立身出世を願い重ねて、鯉のぼりをあげるようになったとされています。
真砂界隈でも、マンションのベランダや、軒下から「こいのぼり」をあげているのをみると、子供の成長を願う気持ちが伝わってきます。
さらに、こうやって昔ながらの風習を表現できるご家庭があることにも、ほっこりとした気持ちなります。
*鹿児島は仙厳園で今年も4月29日から5月5日まで、島津家に代々伝わる「五月幟(ごがつのぼり」をみることができると聞いています、ご確認の上、ぜひ一度ご覧になってみてはいかがでしょうか。
この写真には、武士の象徴として、奉書で折った兜の折紙、兜の下には、紐を結び入れています。これは「勝手兜の緒をしめよ」の意味を込めました。
そして独楽盆は、私が幼い頃に見上げていた鯉のぼりの大きな目に見立てました。
花瓶の花は菖蒲と芍薬。
菖蒲は尚武と同音であることからも男子のお祝いや、厄除けの意味をもっていると考えられて伝わっていることもあります。
芍薬と対比して男女の表現にも通じます。そのほか、根が付いた蓬(よもぎ)は、根をつけることで代々の繋がり、そして清めと邪気を祓う意味も含んで盛りました。
端午の節句の盛物ひとつひとつに意味があると思うと、そのことを知る喜びと共に、先人が思いや気持ちを物に寄せて表現をしたきた文化が日本にはあるということを実感しませんか。
日本人が大切にしている「おもい」「心」という目に見えないものが、奥深く見えてくる気がするのは私だけでしょうか?
今年の端午の節句には、折紙1枚と紐1本だけでも玄関先に飾ってみるとか、菖蒲の花1本でもお部屋に飾ってみるだけでも、すっきりとした気持ちになるかもしれません。
ぜひやってみてはいかがですか?
ちなみにこちら2枚は昨年の盛物の写真です。
食いしん坊の私はあくまきとかしわ餅を一緒に飾り、我慢できずにその日のうちに食べてしまいました。
花まつり 令和4年4月
お釈迦様の誕生を祝う気持ちを
4月8日は「花まつり」。
言葉は聞いたことがあっても、実際に見たことがある方は少ないかもしれません。
仏教系の幼稚園を卒園した友人は、お花まつりにお釈迦様に甘茶をかけたことが印象に残っていると話してくれました。
私は、季節の行事を学ぶ上で初めて知るきっかけとなりました。
まだまだ、勉強中です。
お釈迦様が生まれたのは“ルンビニ”であったと言われており、今のネパールに近い場所だと伝えられています。
ルンビニの花園で生まれたお釈迦様は生まれてすぐに七歩、歩き、そして、天と地を指し「天上天下唯我独尊(てんじょうてんが(げ)ゆいがどくそん)」と言われたと言われています。
これは、よく聞くお話でもあるかと思います。
*天上天下唯我独尊:天の上にも天の下にも私は一人で尊いという意味。
今月は、花園で生まれたお釈迦様のお誕生を祝うイメージを表現してみました。
この写真をみて、真ん中にあるものは?って思われましたか?
生まれて間もないお釈迦様が天地をさした像に見立てたのが、土の中から顔をだした笋(しょう:掌にのる出たばかりの筍)です。
また「仏影蔬(ぶつえいそ)」とも呼ばれることから、お釈迦様の見立てとしました。
幾重の筍の皮は衣をつけている感じと思ってみると、着物の合わせの部分のようにみえてきませんか?
オレンジ色の金盞花(きんせんか)は仏華と言われ、平らに花開くその姿が平等を示しているとして一緒に活けています。
そら豆は、仏豆ともいうそうです。豆の先端が、空、天をさして実をつけます。天を向いている姿を表しました。
この写真を撮影したのは、去年の4月。家に咲いている満開のサツキの花をバックに、庭にテーブルを置いて花園のイメージを作り、最後に、蓮の花を紙にかたどった“散華”をちらしました。
紫のスターチス、連翹の黄色ほか陰陽五行の五常を5色の花の色に託しました。
花咲く4月に・・・。
草木も芽吹き、様々な花が咲き、心も華やかになる季節。
そして学校、社会のいろんな物事が新しくスタートする時期でもありますね。
新しいことへの不安がある方もいらっしゃるかもしれませんが…。
ワクワクする気持ちが勝っている方も多いのでは?
この時期、花まつりの行事を意識するしないにかかわらず、“きれい”と思う花に足を止めて見たり、優しく新芽に触れてみたり、“いい香り”と花の香りを吸ってみるなど、自然がもたらしてくれるものに身を委ねる時をもってみてはいかがですか?
想像よりちょっぴり心が弾んでいることに気づくかもしれません。
桜徒然 令和4年3月
桜の季節がやってきますね。
桜始開と書いて“さくらはじめてひらく”と読みます。
1年を24等分した、二十四節気。
さらにそれを3つに分けた七十二候、そのなかで
第十一候が「桜始開」です。
桜が咲き始める3月の26日~3月30日の頃を指します。
日本人にとって花といえば“桜”
その関りは古事記の時代にまで遡ると言われ、万葉集が書かれた頃には
桜は神聖なものとされていたそうです。
名前の由来や語源について
多くの説があります。
コノハナサクヤビメが、桜の種をまいて花を咲かせたことから
コノハナサクヤビメのサクヤがサクラに…という説や
さくらの「さ」は稲や田んぼの神様を意味する言葉で
「くら」は神様の居場所「御座」(くら)を意味している言葉
ようするに【さくら(神の御座)】は神様がいる場所という意味と言えばわかりやすいでしょうか。
昔は田植えの時期など桜の開花の様子を見て決めていたともいわれ、
日本人にとって、稲(お米)と桜の関係が深いことがわかります。
皆様にも桜の思い出やイメージなど、それぞれあるかと思います。
余談ですが、私がこどもの頃に思っていた桜のイメージは軍歌の「同期の桜」
♪貴様と俺とは同期の桜♪です。
私が通っていた。その頃の鴨池小学校の体育館には、今はもう掲示していないのですが、鴨池の市営プール近くにある「貴様と俺の碑」の写真が額縁に入れて飾ってありました。よ…ね。確実に30年以上は前の話です。
どうしても、懐メロで聞く♪同期の桜のせいで、戦争と桜が一緒になってしまって、桜をきれいと思っていても、華やかな気持ちとは違っていました。
かなり 話が脱線してしまいましたが…。
そんな私も、桜を調べれば調べるほど、その意識も時と共に変わっていきました。
皆様にとっても、桜にまつわる思い出や、エピソードがあるのではないでしょうか?
桜を表現する言葉いろいろ
初桜・桜前線・桜狩り・桜便り・桜吹雪・葉桜…などよく耳にする“さくら”とついた言葉。
そして、“花”=“桜”ということで、桜にまつわる美しい日本語がたくさんあります。
花あかり・花冷え・花筏・花の浮橋・・・ほかにもたくさん。それはどれも桜を愛でる気持ちが生んだ言葉なのだと感じます。
因みに、私が一番好きな言葉は“花時”(はなどき)という言葉です。
桜が美しく咲いている時期のことをいいます。
私たちは自然に、この“花時”の頃を待ち望んでいることに気づきませんか。
大勢の人が、いつ花が咲くか…なんて思いをはせて、今年の開花予想日は?とニュースにも…。そんなワクワクする気持ちにさせてくれるのが“桜”です。それは、日本人ならではの感情かもしれません。ここ数年思うように満開の桜の下、お花見ができる状況とは言えませんが、花は変わりなく咲く時を知って華麗に花を咲かせて楽しませてくれます。
今年、鹿児島の開花予想日は3月23日頃だそうです。
待ち遠しいですね…。
(追記)3月20日に鹿児島地方気象台より開花発表されました。満開が楽しみですね!
ひなまつり 令和4年3月
「ひなまつり」は、五節句のひとつで「上巳の節句」、「桃の節句」と呼ばれています。
旧暦の3月は丁度桃の花が咲く頃でもあり、桃の花は、邪気を祓う花ということにもよるものです。
日本の伝統行事などには、中国の陰陽五行説の考えとは深く関わりが多くあり、諸説ありますが、「ひなまつり」もそうだと思われます。
日本では平安時代にはじまりをみることができます。
中国では奇数が重なる日は、“陽”の気が強すぎるので、陽が重なり逆に忌日となり、よくない日と思われていました。
中国では、3月3日、厄や穢れを祓うために、青い草を踏み、酒を飲み交わし、川でみそぎをしていた「踏青(とうせい)」という儀式がありました。それと、人の身代わりとしての「形代(かたしろ)に厄や穢れを移して海や川に流すという日本の「流し雛」の行事が融合したと言われています。
“ひな人形”というと宮廷の華やかな衣装をまとった人形を思いますよね。ですが、それは、江戸時代以降といわれています。
ひな祭りの頃に、尚古集成館では、歴代のお姫様のひな人形を展示公開しており、時代の変遷をみることができます。
写真は「薩摩糸びな」と「流し雛」のイメージです。ひなあられと米を煎ったもので川の流れに見立てて、人形が流れていく様を表現したものです。
「薩摩糸びな」は、江戸時代に作られ、戦前までは、女の子が生まれた家に贈る習わしがあったそうです。「親戚や近所の方から桃の節句には贈られて、大きさも様々あったそうですが、贈られた糸びなをズラリと飾ったそうですよ」と、戦後に途絶えていた「糸びな」復活させた小澤寿美子先生の娘さんにあたる、新山禮子先生から伺いました。
*その先生の手ほどきをうけ、昨年、私が手作りした簡易なものです。
6年前奄美大島のカフェで3月だけお披露目される「雛人形」のコレクションをみたこがあります。
そこには江戸時代の立雛の絵?や折り紙?タイプのものもあったと記憶しています。
その当時、今ほどには、興味を持っていなかった為、写真も撮らずに惜しいことをしたと思いますが。
ひな人形ひとつとっても、時代の変遷があるものだと感じます。
現在、“ひな人形”として認識している、豪華な七段飾りのものなどは、江戸時代、徳川家康の孫にあたる東福門院和子が自分の娘にために作ったのが最初だと言われています。
その豪華なひな人形には、母の娘をおもう心が秘められていたようです。
そのことを知り、その立場や、胸の内を思い図ると複雑な心境になりました。
とはいえ、女の子の成長を願う心は、いつの世も変わらずにあることに、気づかされます。
お家で、何年も出していないお雛様があったら、ぜひお内裏様とお雛様だけでも飾ってみてはいかがでしょうか?
桃の花と共に男雛と女雛
私の家のお雛様飾りは、ガラスケース入りで、親戚や友人の家に飾られていた豪華な七段飾りを羨ましく思っていました。
なんという特別でない、ある年「♪お内裏様とおひなさま~♪」を唄いながら、母と共に飾っていた時に、ガラスケースに反射していた陽の光の一瞬の情景を今でも思い出します。
昨年、何十年ぶりかにお内裏様とお雛様を出してみました。
久しぶりのお人形との対面に、母の思いが、時を超えて“津々と”伝わった気がしました。
季節の行事で親心を知るなんて思いもしませんでした…。
恵方巻き 令和4年2月
節分と言えば、豆まきと恵方巻きでしょうか?
節分が近くなると恵方巻きの予約受付の広告をあちこちでみかけます。
恵方巻とは、節分に、その年の良い方角とされる“恵方”を向いて食べる巻きずしのことです。
恵方巻を食べる習慣って、いつ頃はじまったのでしょうか?
実は、私が初めて恵方巻を食べた記憶というのは今から30年近く前…。
友人が当然のように
「恵方巻をお寿司屋さんに行って食べる会」開催します!とお誘いをうけたのです。
「それって何?」私の家では、その当時食べる習慣はなかったからです。
そして、2月3日、よくわからないまま、何となく縁起がよいならと参加しました。
初めてです!という私にお寿司屋の大将が食べる前に「これって重要です」と説明をしてくださった食べ方はこういう感じでした。
- ひとりにつき1本です
福を巻き込む巻き寿司なので包丁で切らずに、1本食べます。 - 恵方を向いて食べます今年は●●の方角です
その年の歳徳神がいる方角(何事も吉とされている恵方)を向いて食べます。 - まずは願いごとをし、黙々と1本残さず食べきること
食べ終わるまでは、おしゃべりはNG。「最後まで必ず食べきる」でした。
その日、友人5・6人で必死になって1本を食べ終わったら、思わず笑いあって、なんだかいいことありそうな気持ちになって楽しかったことを覚えています。
【恵方巻はいつからはじまったのでしょうか?】
その起源や発祥については、諸説あるようです。
中でも、大阪の船場の旦那衆が花街でやっていた遊びが少しずつ人々に浸透していったではないかという説が最もよく知られています。ですが、近畿地方の一部地域ではその前から、そういうことをやっていたという説。江戸時代から明治時代にかけて始まったという説もあり、明確ではないようです。とはいえ、当時から商売繁盛や無病息災などを祈願する風習として始まったのではないかと言われています。
時を経て、昭和7(1932)年に大阪鮓商組合によって作成されたチラシが残っています。これらは現存する恵方巻に関する史料としては最古のもので、恵方を向いて無言で1本の巻き寿司を丸かぶりすればその年は幸運になれるという内容のチラシを配布したものだそうです。
また、1973年には大阪海苔問屋協同組合が、節分の夜に家族揃って巻き寿司を…というチラシを寿司屋に海苔を納めるときに配ったそうです。全国に広がった背景には、海苔業界の「海苔祭り」も多分に影響はあったようです。
さらに1980年代以降、コンビニ業界での販売がきっかけで、それに伴った宣伝活動も活発になったと言われています。恵方巻のネーミングもセブンイレブンが最初であったといわれています。そう考えると、鹿児島にもともとあった習慣ではなかったには違いなさそうです。ですが、最近は、いろんな味のバリエーションも増えて、恵方巻を食べることも定着をしているように感じます。
【今年の吉方角は?】
「恵方」は毎年変わります。この方角は、陰陽五行説に基づいてだされており、1年の金運や福を司る歳徳神(としとくじん)という神様がいる縁起のよいその方角とされています。今年は北北西です。お間違いなく。
今や節分の風習として知られるようになった「恵方巻」について、いろいろとご紹介しました。
皆様も、福を巻き込んだ巻きずし(恵方巻)を食べて、1年の幸せや願いが叶いますように…そんな思いを重ねて丸々1本召し上がってみてはいかがでしょうか?
くれぐれも慌てずに、ゆっくりよく噛んで。
そして…笑顔はOKですが、おしゃべりはNGです。
最近はフードロス問題も関連して予約をすすめるお店が増えていますので、お気に入りの恵方巻は予約する方が良さそうです。
私は必ず食べるものだからと、事前予約済!
勝手にですが“先手必勝”という感じです。
既に私の節分を楽しむ準備は始まっています。
節分 令和4年2月
2月3日は「節分」ですね。
昔は“せちわかれ”とも呼ばれ、季節の変わり目という意味をさしています。ですから立夏、立秋、立冬それぞれの前日はすべて節分ですが…今は立春の前日だけが行事として残っていると言えます。
「鬼は外~福は内~」幼い頃に父親の声ともに声をあわせて豆まきをしていると、時間差で、隣近所からも同じように様子を感じることがありました。懐かしい昭和の頃の真砂でもよくあったお話です。今では、豆まきをした形跡さえもみることが少なくなってきました。皆様にとっての思い出の節分に思いをはせてみてはいかがですか?きっと、何となく頼もしく感じた父の背中や、無邪気に大きな声で見えない鬼を恐れていた自分…。気づけば“笑顔”になっているのではありませんか?
豆まきは、中国から伝わった「追儺(ついな)の儀式」に由来すると言われ、疫病は災害、陰気、寒気を鬼に見立てて追い払う行事で、中国では豆をまくことではなかったようですが、遣唐使から日本に伝わり、民間信仰の中で鬼に大豆をまいて退治した説話も生まれてやがて定着していったともいわれています。
そうそう 皆さんが思い描く鬼は角があって、しましまの虎模様をまとっていませんか?これは、陰陽五行の鬼門の方角にあるのが“丑寅”です。そこから牛と虎の特徴を持ったイメージが想像されたのでは?といわれています。
こちらの写真は
「鬼は外~」煎った豆で鬼を追い払った鬼が退散していく豆まき後のイメージ
こちらは
節分の翌日は「立春」 めでたい春がやってきます
お盆の中で表現している物と意味
「大豆」豆は“魔滅”魔を滅す意味や、「まめ(達者)」であるようにという願いも込めて。
「枡」一升枡を使い「いっしょうます」と読んで人の一生が益々よくなりますように。
「柊(ひいらぎ)」柊のとげは、鬼の目をつくと言われています。
「鰯」鰯を焼くときの煙や臭いは鬼が嫌うといわれています。
「あたり棒」鬼が持っている「こん棒」に見立て。
「鬼のお面」鬼が隠れている様子を表現し、あたり棒で追い払うそんなイメージ。
「柚子」柑橘=「吉」として新しい春への願いを表現。